魚屋が宿をやるということ

STORY 1 金子 英典 夜明茶屋 代表

interview: 株式会社やまひら 金子 英典
聞き手: 福岡移住計画 須賀 大介

なぜ、有明海の魚の卸業や飲食店を営む会社が、柳川で空き家を活用した宿をはじめたのだろう。それを不思議に思う人もいるかもしれない。
しかしそこには、地元で根を張って時代を超えてきた会社として、柳川のまちづくりやひとづくりへの熱い思いが隠されていた。今回は、株式会社やまひらの代表取締役の金子英典氏に、この宿のプロジェクトを創るにあたっての思いと、これからの構想を聞いた。

夜明茶屋のはじまり

須賀:夜明茶屋といえば、お店のあの煙突が象徴的な景色ですが、会社はあそこからはじまったんですか?

金子:そうですね。明治23年じいさんの母ちゃん。ヒラノキヨさん。金子じゃないんですけど、ヒラノキヨさんが最初に商売を始めたところから。あそこです。夜明茶屋があるところですね。あの食堂があるところ。あそこが原点です。明治の時代からあります。

須賀:あれはなんの煙突なんですか?

金子:ウチはどっちかというと最初からずっと有明海の魚介類の取り扱いが多いんですね。魚介類というか当時は、貝類が中心でやってて。貝の水揚げがある。例えばアサリ貝。昔はアサリをボイルして、身だけにして魚市場に1キロに詰めて出荷したりとか、そういう仕事をしてて。
その時に、ボイルするために昔は薪なので、私の小さい時まで、そこに薪をいれるようになってたんですよね。それの煙突です。大きい鍋みたいなでかいやつに貝をいれて煮炊きして、それをあげて身だけはずして出荷する。その名残の煙突です。今でも現役です。

柳川を離れて・・

須賀:金子さんは4代目ですよね。最初からこの事業を継承するつもりだったんですか?

金子:大学卒業時に就職で東京に出て。最初はそうは思ってなかったけど、東京時代は、もう跡継ぎをしなきゃいけないというのは薄々…ね。責任感というか 長男として生まれましたので。小さい時から父の仕事は見てますから。歴史もあるので。

大学時代、もう20歳ぐらいですかね、私がね。その頃でも平成ちょっと入ったぐらいなんですけどね。大学途中やったんですけど、有明海が水揚げが減ってきてたんですよ。すでに。水産資源が枯渇し始めてきてて、商売が成り立たなくなってきてるんですよね。

これは、もし俺が跡を継ぐんだったら、同じ水産業界に就職すべきなのか、全然違う方向から自分のところの商売を見る、どっちがいいんだろうと思いまして。
ただ、日本を動かしている東京はまず見てやってみらんと、どうしようもないなと。経済人としてね。いずれ帰ってくるつもりだったんですが一旦東京の会社に就職しました。

当時はまったく、異業種の、その当時僕も興味もあったので放送業界というね。株式会社朋栄という、今でもあるんですけどね。映像の機器メーカーに。テレビ局の編集スタジオとかに機械がはいっている、テロップを出す機械とか。今は簡単にパソコンでできますけど、その当時はスイッチャーなんかワイプがね、なかなか数百万する機械だったりをね、フジテレビCXとかに売りに行くわけですよ。赤坂のTBSに行ったりとか。もしくは企業さんの商社とかの会議システムを構築したりとか、そういうものを、売り込みに行ったりとかしていたんですよね。そういう(家業とは全く別の)目線で仕事を見てみたかったというのがあったんです。

須賀:当時はバブルだった?

金子:バブルもう終わってるんですよ。
ちょうど終わって、ぎりぎり就職できて、氷河期っていわれるのがすぐきた時期ですかね。だから大学を出ても仕事に就くということが非常に厳しくなってきた時代ではありましたね。就職活動している時は良かったんですけどね。もうだんだん悪くなってきました。バブルが弾けてね。

柳川に戻って、事業のスタート。

須賀:どういうきっかけで、柳川に戻ろうと思ったんですか?

金子:父が、たしかうろ覚えなんですけど、体調を崩したか怪我か何かしたんですね。
田舎なので祭りの準備してたんじゃないかな。石かなんかが自分に乗りかかってきたみたいで。そういうのもあって、で、「そろそろどうか?」というような話があって。その時、家業には従業員さんもいたので、これはどこかで区切りつけなきゃいけないのかなというのもありましてね。で、戻ってきたということなんですけどね。

須賀:当時、水揚げも減ってきて、バブル末期ではあったけれども華やかな、芸能にも出入りするような業界から、柳川に戻って、まったく違うご実家の商売を継がれる時のその時の気持ちはどんな風だったんですか?

金子:気持ちはちょっと…ね。頑張らないかんなというのはもちろんありましたけど、戻ってきて愕然とするものがあるんですよね。ここで食っていくのかっちゅうね。やばいじゃん!というね。

仕入れと売値が逆転したりするわけですよ。おいおいって。1000円の仕入れに対して800円?嘘つけ!って。俺が昨日仕事したやつなんなの?みたいな。どうやって飯食っていくの?っていうね。

そこで帰ってきたはいいけど、温かい家庭というイメージではないですよね。そこから戦争ですよ。戦争。本当に戦争。日々。どうにかして飯食って、どうしようかという。もちろん銀行に借金もありますしね。商売やってますから返さなきゃいけない。従業員さんに給料払わなきゃいけない。

有明海ってご存知の通り、干満の差がめちゃくちゃあって、5、6メートルあるので時間が読めない。漁師さんが帰ってくる時間が。つまりそれだけ不安定な仕事なんですよ。

須賀:そうなんですね。

金子:そうなんですよ。満ちてくる時間に漁師さんが海から帰ってこられるので、海が引いてると海水がないので船で帰ってこれない。その時間って一応潮見表でしか分からないので、1日約1時間ずれていくわけね。だから夕方5時に例えばアサリを受け取ったら、次の日は6時だねと。
次の日は7時だねと。普段みなさんお仕事されていると、土日が休みが当たり前だと思うんですけど、海という自然を相手の仕事なので、まず雨が降ったり今日のような天気の時は休みだよね。突然休みになるのよね。だから合わないのよね、若い人たちの仕事の価値観と。

であるならば、3倍ぐらい給料が高ければ来るでしょう。2倍か、せめてね。だけどさっき言ったように水揚げは下がってきてて、仕入れと売値が逆転してて。

バブルが崩壊してるのでデフレですよね。そうなってくると、給料も思うように払えなくなるじゃないですか。これどうしようかと思って。もう日々親父と喧嘩しながら。顔を合わせりゃ喧嘩ですよ。どうやって飯食っていくんよ?って話で。

須賀:その時はまだ?飲食は無かったんですよね?卸しだけ?

金子:そう、鮮魚介類の卸しだけで。父がやってた仕事をそのまま継承していくということだけだったんでね。魚市場がメインです。漁師さんから買い付けして。漁師さんから見ると問屋業になるんですね。問屋さんがものを集めて、規格を合わせて、そして魚市場に出荷するという。今日あったじゃないですか(※)、魚。あの魚を競りにかける側。今日は買う側。

※(この日、私たち取材チームは柳川の魚市場を案内してもらっていた)

須賀:なるほど!

金子:両方やってます、今はね。その当時は市場へ出荷するだけの側だったんですね。これじゃあ成り立っていかないわけよね。付加価値つけるか、もうひとつは競りなんだよね。自分で価格を決めれないのがものすごくジレンマがあって。自分の扱ったものに自分で価格決めれないってつらいじゃないですか。

そしたら、自分で決めれるやつ。だから小売りをやろうと思った。で、あそこの、今食堂の横の外にトイレがあるわけです。階段の下に。そこに洗濯機とか室外機とかありますよね。コンクリートのスペースが。あそこで魚屋を始めたのが、あの1坪。
親父と一緒にやってると喧嘩ばっかりなので、分かったと。じゃあ俺が1坪の魚屋やるわと。

須賀:1坪だけくれと?

金子:1坪借りるぜと言って、あそこの今の事務所の階段の下の本当に1坪ですよ。で、魚捌けないわけですよ。(笑)世の中はデフレに向かっていってるので、安く売ったれ!と。叩き売ったれ!と。しかし、その当時僕は刺身にできないし。流し台だけうしろにつけて。これちょうだいよと言ってもらってきた流し台、うしろの階段の真横に並べて。水道そこに引っ張って、「ご自由にお使いください」って手書きの看板つけて。お客さんが自由に流しを使えるようにした。

須賀:セルフ魚スタンド。新しいですね。

飲食、そしてお土産のはじまりについて

金子:その当時、20年前ですけどね。そこから始めたんですよ今の街の魚屋さん。自分で値段決めれるので、自分の責任じゃないですか。で、小さい量から始めて、やり始めた。そしたら魚屋さんは100パー全部売れるのがベストなんだけど、残っちゃうのもやっぱりあるんですよね。これをどうやってお金に変えるかというのが次の課題。目の前に残った魚あるので、どうするよと。これどうする?捨てるの?という話ですよ。そしてそこから、「じゃあ食べさせてみようか」という。粕漬けはもともとつくっていたので。昔からね。観光地でもあるので。お土産にも使えないかな?と、両方やっていくわけですよ。

で、料理屋さんを立ち上げて。その頃、今の食堂がある場所は魚も獲れなくなったので、工場2つあったんですね。こっちはもう閉めちゃおうよと。こっちは食堂にしちゃおうかということですよ。工場1つにしちゃって、こっちを食堂にした。

けど、父はつらかったと思いますよ。自分がやってきた仕事を僕が潰していくわけなので。いつも喧嘩ですよ。僕が「今からこれやけん」と言ったり、「これで飯食っていくけん」って。

社長ですからね、まだ。ウチの父がね。「何ば言っとっとか!」みたいなことありました。父もまだ若かったので強いですよ。だから「ハンコ押さん」とか言い出すし。いやいや押してもらわな困ると。給料稼がないかんというところですよ。そういうのをやりながらやってきたんですよね。だから料理も、今はもう調理場に立つことも少なくなりましたけど、自分で調理師免許をとって調理やって。

須賀:調理師免許も自分で取ったんですね?

金子:取りました。フグの免許も取りましたよ。フグ屋さんに勉強しに行ってやったりとかして。だから最初の定食とか、ウチにある「有明の幸定食」というのが最初の定食なんです。僕つくってたんですよ。

なんでかというと、最初はお魚屋さんでこれまた“ご自由にどうぞ方式”好きなので、炭と焼き台、今の牡蠣小屋みたいな、そういうのだけレンタルをしようと思って。レンタルして、お魚屋さんで買って自分で焼いてっていう方式にしてたんですよ。最初。海岸もあるし。

そしたらお客さんって面白いもので、「ご飯ない?」とか言うんですよね。「味噌汁ないかな?」とかね。しまいには「煮つけ食べたいな」とか(笑)。観光客も来るわけよね。
そうすると、珍しいもの食べたいわけよ、観光客は。「イソギンチャクって柳川食べるらしいじゃないですか。イソギンチャク食べたいんですけど」みたいな。

須賀:今のメニューはお客さんからニーズがあったものを形にしたんですね。

金子:そうです。もともとイソギンチャクも減ってきているので、そんなの料理屋さん、昔はいろいろなところで食べれたんだけど、食べれなくなってきたのよ地元でも。
だから「どこ行っても食べれないので食べたいんですよ」とお客さんが言うので、じゃあ煮つけせないかんね、ご飯も炊かないかんねという感じで増えていったら、みんなバラバラに注文するもんで、てんやわんやしてくるわけよ。

で、地元のおばちゃんに、主婦やから地元料理でかっこつけようと思ってないので食堂でいいと。日々のやつを味付けてくれればいいけん、一緒にやろうよと言って、パートのおばちゃんを雇って、今の調理場で一生懸命やってて。

それでも、みんなバラバラに頼むと追いつかないわけよ。魚屋もやらなきゃいけないので。こりゃいかん。みんなの要望の高い順番に集めようということで集めたのが、有明の幸定食。「定食ありますけど、それにしませんか?」みたいな。そしたら楽じゃないですか。それだけ出しとけばいい。そこからですよ。(笑)

今みたいにYouTubeがあるわけじゃないし。今やったら魚の裁き方とか簡単にわかるけど、その当時はまだなくて。僕には誰にも教えてくれなくて。魚屋さんもね。
敵が増えるわけですから。だから魚市場で働いてる人のを横目で見ながら、「ああやって捌くんかいな…」って勉強しながらやってましたね。最初魚屋やった時はアラ(骨)が売れるんですよ、飛ぶように。アラしか売れないんですよ。身がいっぱいついとうけんね。そこからですね。

須賀:そこで飲食店が生まれて、さらに付加価値をつける、と。

金子:そう。で、お土産のほうでもやってということで。けどお土産については、どうしても干したり昔ながらの伝統的な加工技術しかウチにはノウハウがないんですよね。粕漬けをつくるのが関の山。あとは、干す、焼く。これぐらいの技術しかなくて。それじゃあ、どこでもやってるので売れない。

その時に、40歳前ぐらいだったと思うんですよね。その頃に、福岡県庁に地元の同級生の田代さんが、「ちくご元気計画」(※)を県庁の企画として立ち上げた。田代さんが、「金子君、悩みある?」と。「いっぱいある、加工したり、打ち出し方とか・・」って。「ちょうど良かった。ちくご元気計画というのをやるので、柳川の企業として参加してやらん?」と言ったんですよ。
直感的に「やるよ!」って。デザインが何かも分からんけど・・・。とにかく直感的に、僕らの未来をつくってくれる気がした。とりあえずお土産品として作りたいものを考えて、
「これつくれんかいな?」と相談する。デザインや、食品加工技術のある人を講師として連れてきてくれて一緒に勉強させていただいて、そしてその地域にしかない、オリジナルの商品を創っていく。その過程で、自分たちもこれまでになかったデザインの概念が少しずつ分かってきた。こうやって、価値を消費者に伝えて、届けていくのねと。

夜明の宿プロジェクトの始まりについて

須賀:そして今回の宿の話に入るわけですが、最初はWEBサイトの相談でしたね。

金子:そうなんですよ。須賀さんが御花で講演されてて。そこで名刺交換させてもらってからの話でしたかね、たしかね。

須賀:そうですね。より社長としては、これからまたつくった商品を知ってもらうための、ウェブサイトをもっとより良くして売上をあげていこうというときだったんですよね。
一方で、あの時に課題意識もお聞きして。やっぱり地元の若い人たちに仕事をつくりたいって。空き家がどんどん増えてきて。そういう課題、地域の課題もすごく感じられてましたよね。

金子:そうなんですよね。やはり柳川は結構福岡県下でも有名な観光地みたいに知られてますけど、実は人口は何千人と毎年減ってきてるんですよね。30年後には消滅都市と言われてるんです。そこのひとつの都市でもあるんですね。空き家も増えてきてるじゃないですか。高齢化も進んでるじゃないですか。
僕は本当にふるさとでもあるし、どうにかせないかんという思いが非常に強くて。

須賀:うちも移住計画として、民泊をこれから。単純に旅行客を増やすというより、将来的には移住に繋がるような、そういう旅行をつくっていこうという考えた時の偶然の出会いがあって。社長としても、やってみよう!と言っていただいたんですよね。
宿をやってみたいという想いの中には、どういった期待があったんですか?

金子:やっぱりいろんな想いはあるんですね。だけど最初の原点は、僕は魚屋ですので有明海が好きですし。だから、まず柳川を知ってもらいたいとか有明海を知ってもらいたい。
そのためにはツールとして「宿」が必要なんですよ。

なんでかというと、夜食べて、うまいもの飲むんやったらどっか泊まらないかんやろと。 お魚いっぱい見るには市場に連れていかないかんやろと。市場に連れて行くには、朝早いので、どこかに泊まらないかんやろと。で、さっきも話したけど有明海を体験するには、干満の差があるので、いつ来ても体験できるわけでなく人間が海の時間に合わせなきゃいけない。海側に合わせなきゃいけない。それでタイミングを待つ場所がいるやろ。そういうのを考えると、やっぱり宿泊施設が近くにいるよねっていうのが。柳川をもっと知ってもらうためにはね。思ってたんですよね。

ただ、ふとまわりを見渡すと、空き家も増えてきてる。どうにかこれを活用できんやろかと。
あわよくば人も増やしたいと思ってますから。福岡移住計画があるぐらいですから、柳川移住計画。みんなのためにもなるっちゃない?っていう。お手伝いできるんじゃない?っていうね。お客さん来る来んで損するのは俺だけの責任やけど、やることによって誰かに迷惑かけることはひとつもないなと思ったんですね。やろうかなと。

もうひとつは、僕の中では柳川を知ってもらうために、柳川を見ると立花藩というお城跡があって、殿さまの別邸の御花というものがあって。ひとつは魚市場が近くにあって、港があって。周りには 川下りがあって、商店街があって、武家屋敷があって。そんなのが歩ける距離であるんですよね。掘割の周りは散歩する散歩道も日本百選に選ばれたりとか。
有明海の夕日は日本三大夕焼けのひとつ。ちょっと足を延ばせば見れる。そういう環境にあるじゃないですか。

これって、ある意味ひとつのテーマパークじゃないかなと思って。ディズニーランドみたいなもんだなと思って。柳川ディズニーランド計画化しようかなと思って。それを回遊させるという意味では、宿をいくつか点々と置くといいんじゃない?と思ってですね。
これはいけたなと。僕の頭の中でロジックがガッと組み立ったんですよね。で、みんながハッピーになるなと。これだと。体験型でもあるし。

須賀:街全体がホテルになり、全体のコンテンツや文脈を活かしたいですよね。

金子:そうなんです。もともと旅行ってなんなの?とか。突き詰めればいろいろな旅行のパターンはあるかもしれないけど、柳川は体験。柳川の文化をふれてもらうほうがいい場所であるのかなというのはちょっと思ったので。であるならば、大型ホテルよりも点在した、空き家を活用したようなものが合うのかなと考えましたね。

須賀:そうですね。また柳川の課題としては、日帰り観光が95%。うなぎを食べて帰っちゃうという。素晴らしい地元の宝があるのに、なかなかそれが知られていないというところですよね。ご宿泊して、そういうものを体験していただくことをこれからやっていくわけですね。

金子:そうそう。

須賀:あと、地元の雇用を増やしたいともおっしゃられましたね。

金子:雇用に関しては高齢化もしてるので、ウチも社員とかパートさんがいらっしゃるんですけど、正直歳取っていかれるじゃないですか。宿って、よく考えると10時チェックアウト、インが15時。その間にすべてのことを、お掃除したり準備をしたりするじゃないですか。主婦の方が一番空きがとりやすい時間もその時間帯なんですよね。

お年を召した方でも、ある程度体が動けば掃除はやってもらえるじゃないですか。
これは長くお勤めできる仕事だなと。勤めることは健康をキープすることにも繋がっていくので、これも素晴らしいことだなということで宿の事業もぴったりだなと思いましたね。

夜明の宿スタートしてから・・

須賀:今回も、まったく新しいむつごろうラーメンをつくった時と同じぐらいの宿をやることに関しては、ご両親もそうだし、社員さんにとってもインパクトがあるかなと思うんですけど、反応はどうだったんですか?やると言った時には。

金子:反応はね、みんなやっぱり最初は「????」でしたね。嘘やろ?みたいな。けど、これはこれまでずっと話をしてきた通り新しい産業でもあり、私たちの地域や会社にとって、体験を提供することやこれまでやってきたことをつないで提供するという意味では非常に重要な事業なんです。僕は、ちょう商店街の会長もやってるので、そういう商店街ともゆくゆくは繋げていきたい。それをスタッフや、地域の皆さんに少しずつ理解してもらえるように。

今は、心配感からワクワク感に変わってきていますよ。これからさらに“生きがい”に変わってくれれば、僕は最高にいいなと思ってますね。

よそから来た人たちに柳川を知ってもらって「いいところだね」って言われて嬉しいって。いいところですねって言われてるんですよ、お客さんから。私が住んでるところってそんなにいいところ住んでるんだと。ウチの母が言ってるんです。いつもウチの母は店頭にいるわけだから、「ウチ(夜明茶屋)に来るお客さんが 柳川いいところですね。いいところですねって、みんな言うっちゃんね。どこがいいとかいね」って言うとですね。今でも言うんですよ。だけどやっぱり言われると嬉しいみたいで、「よかっちゃろうね。嬉しいね、言ってもらえると」って言うんです。
もう80歳近くなるんですけど、嬉しいんですよ。だから今でも現役で立ってるんですよね。そういうふうになればいいなと思います。

今後について

須賀:大切なのは、人とのふれあいですよね。それを地域で、この場所でつくっていく。その起点になるような宿になっていくってことですよね。

金子:今から特にAIの時代で、デジタル化だなんだってありますよ。さらにコロナの影響もあって、なかなか人同士がふれあう感覚とか、温度感とか、そういうのが非常に貴重な体験に変わってきて、これまで当たり前のことに価値がつく時代がまた来るんじゃないかなと思ってるんですけどね。やっぱり人は人とのふれあいでしか得られるものもあると思うんです。温かさとかぬくもりをね。そうすることによって、豊かさとか幸せな暮らしぶりが成り立っていくのかなと思うんですけどね。

須賀:最後に、これから宿に来られる方にメッセージを。

金子:とにかく柳川を知ってもらいたいんですよ。有明海を知ってもらいたいんです。柳川の暮らしぶりを、かっこつけないところでいいので、普段の柳川を見てもらいたい。そういう体験を感じてもらえて、自分のふるさとのように思ってくれるように。スタッフとお待ちしていますね。

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